毎嘘教養講座『歴史の墓穴を掘る』シリーズ お話:作家、司馬●太郎氏

 
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10/25弁慶の義経への秘めた愛」
10/18仰天!小野妹子は男だった」
10/11「新説:天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らず」
10/4「新説:板垣死すとも自由は死なず」


弁慶の義経への秘めた愛

2002年10月25日


 皆さん、こんにちは。今日は武蔵坊弁慶と源義経についてお話したいと思います。

 源義経(1159ー1189)は平安末期に源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と申しました。父、源義朝が平治の乱で謀殺された後、牛若丸は奇跡的に死刑を免れて京都の鞍馬寺に入り、やがて陸奥の藤原秀衡の元で成長。1180年、21歳の時、兄・源頼朝の挙兵を聞いて急遽駆けつけて参戦。兄弟の再会を果たしました。

 1184年に源義仲を討って、2月には一ノ谷の戦いで平氏に勝利。1185年の屋島の戦、1185年の壇ノ浦の戦と勝ち抜き、ついには平氏を全滅させたのです。しかしそこで頼朝の不興を買い鎌倉に入れず、追っ手を逃れて諸国を流浪。その後再び秀衡を頼ったのですが、秀衡の没後、子の藤原泰衡に急襲され、衣川の館で自害致しました。

 さて、義経さんの家来の武蔵坊弁慶さんについてですが、芝居その他では有名なキャラですが、生年は不詳、伝説上の人物ではないかと最近まで言われておりました。伝説によると幼名は「鬼若」と言い、幼くして比叡山延暦寺で僧侶の修行を始めます。しかし、12歳にして身長185cm、体重165kgのずば抜けた体格の持ち主。腕力にまかせて乱暴のし放題で、ついには寺を追い出され、「武蔵坊弁慶」と名を変え、太刀千本刈りを試みて京都の五条大橋を徘徊するようになります。その彼の前に現れたのが稚児姿の牛若丸でした。何だ子供かと甘く見た弁慶さんは得意の長刀を振り回して刀を奪おうとしますが、反対に牛若丸から強烈な飛び膝蹴りをお見舞いされて大ショック。「お見それ致しました」と降参して主従関係を結びます。

 牛若丸、のちの義経さんは眉目秀麗の貴公子、と歌舞伎などでは語られておりますが、実はイヤミも真っ青な出っ歯で顔の大きい小男でした。性格も明るいのはいいが、後先見ずに行動してしまうB型の衝動人間。思いこみも強く、兄、源頼朝さんの挙兵を聞いた時は興奮のるつぼと化します。二歳で分かれた異母兄弟、義経さんの登場にAB型の頼朝さんは平然としていたというのに、義経さん御本人は「巨人の星」の飛雄馬そこのけの大感動。「にっ、兄ちゃん!」、と嫌がる頼朝さんにしがみ付き、燃える瞳で感激の涙をスプリンクラーのようにまき散らしていたそうでございます。

 とにかく飛雄馬、いえ、義経さんはお追従や根回しのできない直球男でした。平家追討を兄に誓ってからは、思いこんだら試練の道、行くが男のど根性とばかりに血の汗の流し放題。一気に平家一門を殲滅させてしまいます。義経さんへの世間の評判が鰻登りに上がって行くに連れ、陰気で猜疑心の強い頼朝兄さんのジェラシーはブクブクと沸騰点に到達。ついには「うざいやつ、逝ってよし」と征伐されたという訳です。

 さて、そういう義経さんの性格的な欠点をしっかりと見抜いていたのが弁慶さんでございました。弁慶さんは柄のわりに気の回る性格で、義経さんの傍若無人ぶりをハラハラしながら見つめ、時には母親のように何かと意見し、諭していたそうでございます。

 この弁慶さんの義経さんに対する「母親のような」愛情でございますが、弁慶さんについては、つい最近、壇ノ浦大学弁慶研究会の調査で驚くような事実が発覚したのでございます。私も、あまり大きな声では言いにくいのでが、コホン・・・実はですね、武蔵坊弁慶さんというのは実在の人物で、正真正銘の生物学的「♀」だったのでございます。

 いえ、私は決して冗談を申しているのではありません。最近発見された当時の情報筋の日記に寄りますと、弁慶さんは実在の女性で本名「弁慶子(べんけいこ)」、幼名を「鬼若女(おにわかめ)」といい、ギネスブックに載るような大女であったのでございます。しかも色黒で毛深く、胸が真っ平で筋肉隆々としておりましたので、ふんどし一丁になっても誰も女だと気が付かなかったという稀な体型。声も子供の頃からハスキーなしゃがれ声で、顔立ちも眉の太いりりしい顔つき。女として行く末を案じた父親が男として育てたそうでございます。

 もちろん、いくら何でもスッポンポンになれば分かりそうな物ですが、平安末期の日本人は意外とシャイで、人前で裸になる習慣がなかった。銭湯や連れションは江戸期になってからの風俗だそうで、比叡山の僧仲間も義経さんの家来衆たちも、弁慶さんがまさか女性だとは、長い付き合いで誰一人として怪しむ者はいなかったそうでございます。は? 生理?! あ、貴方、わ、私はそ、そんな人様のシモの事までシリませんが、かなり不順だったのでは・・・と推測されます、はい。

 いいえ、「誰一人」と言うと嘘になります。ここに一人だけ、その事に気付いていた方がおりました。義経さんの愛人の白拍子、静御前さん(当時19歳)でございます。女の勘と申しましょうか、静さんは本能的にライバルの存在に気がついておりました。静さんは最初、弁慶さんがホモだと疑っていたようですが、すぐに素股の奥深くに隠された秘密を鋭く見抜きました。「あの伴宙太のやうな大男は男ではなきに候」、と最近発見された静さんの日記(文治元年11月3日晴れ)に記されております。

 伴宙太、いや、弁慶さんの方でも、静さんの存在をライバルとして疎ましく感じていたのは当然です。加えて関西から九州まで頼朝勢から逃げようとしているのに、何かと文句が多いコギャルの静さんを連れて行くのは面倒極まりない事でございました。そこで吉野の旅籠に着いた折、弁慶さんは義経さんを説得するのでした。

 

場面:吉野、夜更け。旅籠の義経の部屋。弁慶、襖を外からノックして入る。

弁慶:殿、静殿は旅の足手まといでございまする。京の都にお残しになった方が。
義経:え〜?! やっだ〜!
弁慶:殿。静殿は孕んでおられるのですよ。
義経:え〜? うっそ〜!
弁慶:(ため息)本当でござりまする。
義経:・・・でも、何でそれが弁慶にわかるのじゃ?
弁慶:女の勘、いや、ゴホン、勘の良い方でして・・・
義経:・・・じゃあ、弁慶から静を説得してくれまいか? ちっと俺からは言い憎い・・・。
弁慶:(ため息)殿、また世話をやかせますな。
義経:(頭を下げる)めんご。

場面:旅籠の静の部屋。床が敷いてあり、明かりが暗い。弁慶襖を外からノックする。

静: マイダーリン?
弁慶:・・・静殿。
静:あ、弁慶、あんたか。殿を待ってるのに今夜は遅いわ〜。うちはもう萌え萌えどっせ。あ〜〜萌えるわぁ・・・。
弁慶:実はお話がござるのだが。
静:何どすえ? 
弁慶:・・・実はここでわしらと別れて欲しいのでござるが。
静:・・・え?
弁慶:いや、すいませんけどね、あんたがいたら逃げるのも足手まといでござるし。
静:・・・え?
弁慶:(お腹を見て)子供も産まれるようやし・・・
静:・・・何であんたにそんな事言われなあかんのどすえ。殿はどうしたんどす!
弁慶:殿は直接言い憎いらしい、ほら、あの人、気が弱いし・・・。
静:そんなん関係おまへん。殿連れてきておくれやす! 殿〜! ちょっと来ておくんなまし! とぉ〜の〜!
弁慶:ちょっと、あんさん。あんまりうちの大将困らさんとってんか。
静:(部屋を出ようとする)何言ってるんどす! とぉ〜の〜!とぉ〜の〜! どこに隠れてはるんどす〜! よっしつねのあっぽー!
弁慶:(うろたえて止めようとする)・・・ちょちょっと、あんさん、そんな大きな声で。
静:(泣きながら)うちは知ってますえ! あんたはんがおなごやという事!あんたも殿の事が好きなんどすやろ!
弁慶:(うろたえて)い、いや、わ、わ、わしは、そ、そ、そんな、あ、あほな、め、めっそうもない、い、い。
静:(泣きながら)何どすえ、ブ〜ス! あの人はぜぇったいにあんたみたいなブ〜スに渡しまへんえ!
弁慶:(うろたえて)そっ・・・そこまで言わんでも。
静:(泣きながら枕を投げつける)ブス!ブス!ブ〜ス! ブ〜スのべんけぇー! ぶっさいくな大女!ぶ〜〜〜〜!!
弁慶:・・・ひ、ひどいっ!(泣きながら部屋を飛び出す)

 

 で、翌日、静さんは一人泣く泣く京都に向かい、即日中に頼朝さんの手下に掴まってしまいます。この後鎌倉に送られ、頼朝公の前で義経を慕う舞を舞い、さしものAB型不感症の頼朝さんもほろりときてしまったという名高い逸話が残っております。

 一方の義経さん一行は九州をめざすが失敗し、東北方面に向かってジクザクに逃れて行きます。歌舞伎の勧進帳にありますように、安宅では山伏に偽装して弁慶さんが主人の義経さんを打つ演技をして関所を通過したり、何かと苦労の多い道行きでございました。ちなみに義経さんが弁慶さんにいやという程打ちのめされた夜、弁慶さんは朝まで上半身裸で添い寝をし、熱を出して震える義経さんを必死で看病したそうでございます。純情な弁慶さんとしては、それが精一杯の愛情表現だったのでしょう。オスカルとアンドレのように、「今宵はそちの妻に・・・」という訳には行かなかったようでございます。

 奥州平泉では、再び藤原秀衡に庇護されて人心地ついたのもつかの間、一年後に秀衡が病死し、子の藤原泰衡に急襲され、義経さんは衣川の持仏堂で自害を決意致しました。その戦の最中、いよいよ最期の時と見極めた弁慶さんが持仏堂に入ると、義経さんは静かにお経を読んでいたそうでございます。弁慶さんが義経さんに別れを告げて辞世の歌を詠むと、義経さんも返歌で死後の再会を約束し、二人は固く抱き合って慟哭したそうです。その後、戦に戻った弁慶さんは持仏堂の入り口に立って長刀を振るい、全身が敵の矢だらけになりながらも戦い続けました。しかし、やがては仁王立ちに成り、ニヤリと笑ったかと思うと微動だにしなくなった。敵が気味悪がって近付くと、立ったまま既に昇天していたそうです。弁慶さんの大往生は、「死んでも愛する殿の自害を守る」という最後の御奉公だったのですね。いや、何ともはや気丈な女性でした。

 ・・・と言うのは表向きの話で、実はあれは弁慶さんのクローンで、本人はとっくの昔に義経さんを背中に背負って日本海沿岸に逃げ去っていたそうです。その時、海岸をたまたま通りかかった元の海賊船が二人を拉致して大陸に送り込み、ここから「義経=ジンギスカン伝説」が始まる事になります。この続きはまたいつかお話しましょう。いや、私自身は別に、そんな、なにをおっしゃるおうしさん、弁慶さんにも義経さんにも個人的な恨みがあってこの事を公にするのではありません。とかく歴史というのは虚偽に満ちたものだという事を、皆さんに知っておいてもらいたいのです。あ、時間ですか? はい、では皆さん、今日はこのへんで、さようなら。来週はいよいよ「秀吉はサルでなくキジだった」というテーマで歴史の墓穴を掘りたいと思います。いや、ホントに。

談:作家、司馬●太朗氏

源義経さん (中尊寺所蔵)

 


仰天!小野妹子は男だった:

2002年10月18日


 皆さん、今日は小野妹子(おののいもこ)さんについてお話したいと思います。妹子さんははっきりとした生没年は不詳ですが、飛鳥時代の方で、日本書紀によると607年に推古天皇の摂政、聖徳太子(574-622)の第一次遣隋使長官として中国(隋)に渡りました。

 この時、隋の皇帝、煬帝に差し出した聖徳太子の国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。(日が昇るところの天子が、日が沈むところの天子に手紙を差し上げる)」と書いてありました。これは小国である日本が、隋と対等の立場に立とうとする内容だったので、煬帝は大変に怒ったと伝えられております。しかし朝鮮半島の支配に乗り出そうとしていた隋にとって、当時の日本との交流は好都合だったので、幸いにも国交が実現したそうでございます。

  さて、この妹子さんですが、「妹子(いもこ)」と女性風の変な名前ですが実はれっきとした男性だったそうです。妹子さんのお母さんのお兄さんに「茄子(なす)」という名の叔父さんがいて、妹の子供だからと単純に「妹子」と名付けたそうでございます。いや、当時の日本は何と言っても文化度が低かった。中国から漢字が伝わってまだ二百余年。貴族の方々と言え、うまく舶来物の字を組み合わして感じの良い名前を付けるだけのセンスがなかったようです。

 これは余談ですが、大臣の蘇我さんのお宅など、妹子さんよりもっとひどかった。蘇我稲目(そがのいなめ)というおトッサンは自分の息子が馬面だったからと「馬子(うまこ)」などという名前を付け、その馬子さんご自身は自分の息子が毛深い赤ちゃんだからと、「毛人(えみし)」。毛人は毛人で、自分の息子がイルカに似ているからとズバリ「入豚(いるか)」。親の因果が子に報い、血が呪われていると申しましょうか、やる事なす事名前通りの悲惨な一族でございました。

 さて、聖徳太子というお方は十七条憲法や冠位十二階を定めたお偉い方でしたが、大変な色好みでございました。后だけで正妻、莵道貝蛸(うじかいたこ)皇女を筆頭に4人もいるのに、男にもそそられるという隠れゲイ。最も当時の日本という国はまだ儒教道徳が盛んになる前で、性的には解放戦線、フリーセクースの天下でございました。ゲイにバイに近親相姦、獣姦鶏姦魚姦虫姦朝刊夕刊夏みかん。皆さん、それはそれは大らかにお天とう様の下で白昼からハァハァ営まれていたそうでございます。

 太子は一応摂政という立場もあり、普段は真面目な顔をしておりますが、キアーヌ似の眉目秀麗な妹子さんには大変な御執心だったそうでございます。太子といいますと、例の一万円札の肖像画が有名ですが、あれはお抱え絵師の苦心のデフォルメ。実物はあばたの大願面であったそうでございます。一方、妹子さんは太子に関心がないばかりか、純正ストレート。太子がいきなり外交官に取り立ててやっても一向になびかず、何かというと太子の誘いを断っていたそうです。そうなると可愛さ余って憎さ百倍。太子が妹子さんをあんな国書を持たせて随に行かせたのも、愛憎関係が高じての事だと当時は都でもっぱらの噂でございました。

 そもそも遣隋使というのは、聖徳太子が大変な舶来好みだった事から思いついた物でございます。新しい物好きの太子は、当時の最先端の随のファッションやミュージック、カルト宗教の仏教(伝来538年)に夢中。「日本なんて遅れた国に生まれて損した、随って進んでてカックイイ〜」などど発言する軽薄な所ございました。しかしインターネットもない時代で最新情報などめったに入って来なかった。それで特派員を派遣しようという事になり、妹子さんに命じたそうでございます。可哀相に、気の弱い妹子さんは泣く泣く日本を発たれたそうです。

 

場面:隋。煬帝の宮殿
(小野妹子、玉座に座る煬帝に跪き、聖徳太子からの国書を差し出す)
煬帝:(妹子に)使いの者、読み上げろ。
妹子:(震える声で読み上げる)ひ、ひ、ひ、日がの、の、の、のぼるところのて、て、て、天子が・・・
煬帝:・・・?
妹子:・・・ひ、ひ、ひ、日がし、し、し、しずむところの天子にて、て、て、手紙を差し上げる・・・
煬帝:・・・「日が昇る所の天子」というのは、あんたの所の聖徳太子の事か?
妹子:・・はい。
煬帝:・・・んで「日が沈む所の天子」というのは、わしの事か?
妹子:(泣きそう)・・は、は、は、はい。
煬帝:・・・ブー。
妹子:・・?
煬帝:・・・ブー。

妹子:・・?
煬帝:ブー。(立ち上がる)お前のとこの太子はブー! ブー。ブー。ブー。失格じゃ!
妹子:(跪く)・・ははい!
煬帝:・・・返事書いてやるから持ってけ。言いたい放題書いたる。 ちゃんと太子に渡せよ。
妹子:(跪く)・・ははっ!


場面:日本への帰りの船上
(小野妹子、甲板で煬帝の返書を紐解く)
妹子:(震える声で読み上げる)・・・日本なんて国はうちの属国のそのまた属国の属国で、うちから見るとごまめの鼻クソもいいとこっ。天子と言えるのは俺だけっ。聖徳太子、お前はヴォケ、カス、デベソ、おまえのカーちゃん・・・。
(ため息)オーマイガー・・・これ持って帰ったら太子さん怒るで・・・
(妹子、煬帝の返書を海に投げ捨てる)

場面:聖徳太子の宮殿
太子:(機嫌良く)よう帰って来たな、ごっくろーさん! 返事は?
妹子:・・・
太子:返事は?
妹子:・・・なくしました。
太子:なくした? 
妹子:・・・すいません。
太子:ほな尻だせ。
妹子:えっ?
太子:尻だせっちゅーとんねん、オラオラ。
妹子:そんな摂政な・・・。
太子:わしが摂政じゃ。わしに逆らう気か。
妹子:・・・ううう。(泣きながら着物を下げ裸の尻を太子に向ける)
太子:(妹子に笑いながら近づいて行く)へっへっへ・・・
妹子:・・・ううう。
太子:行っくぞー!
妹子:・・・ううう。
太子:ペーンペーンペーン!(持ってるしゃもじで妹子のお尻を叩く)
妹子:・・・あうぅ。


 
こうして翌608年、お尻ペンペンされた妹子さんは留学生と共に再び隋に渡り煬帝をなだめて国交樹立。大陸文化の輸入に力をつくした有能な外交官として、その偉業は今なお語り継がれております。一方の太子さんは、40歳ごろから政治は大臣の蘇我馬子に任せて仏教の世界にのめりこみ、法隆寺(斑鳩寺)などの寺を次から次へと建設され、本人は御堂で瞑想三昧の毎日。49歳のある春の日、空中浮遊されたままポックリお亡くなりになったそうでございます。その後643年、蘇我入鹿に攻められた太子の子、山背大兄皇子は斑鳩寺で自害し、聖徳太子一族は滅亡致しました。

 いや、私自身は別に、そんな、なにをおっしゃるおうまさん、いや、妹子さんにも聖徳太子さんにも個人的な恨みがあってこの事を公にするのではありません。とかく歴史というのは虚偽に満ちたものだという事を、皆さんに知っておいてもらいたいのです。あ、時間ですか? はい、では皆さん、今日はこのへんで、さようなら。来週は「弁慶の義経への秘めた愛」というテーマで歴史の墓穴を掘りたいと思います。

談:司馬●太郎氏

聖徳太子さん

  


新説:天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らず:

 

2002年10月11日
 皆さん、こんにちは。今日は慶応義塾創設者、福沢諭吉の名言、「天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らず」という言葉の生まれた経緯ついてお話したいと思います。

 福沢諭吉(1834-1901)は下級武士の息子として大阪堂島で生まれ、緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、その後英学に転向。幕末に幕府の遣米使節団に随行した経験を生かして「西洋事情」を記し、 明治維新後には慶応義塾を創立しました。明治五年に記した「学問のすゝめ」は340万部の大ベストセラーとなり、その後に出版した「文明論之概略」では、西洋文化との自由交流が日本を文明国にするとの考えを打ち出し、「これからの日本人は独立心と自由の考えがなければならない」と力説したのです。

「学問のすゝめ」の巻頭にある「天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らず」という言葉は日本初の人間平等宣言とも言われており、士農工商の封建主義から抜け出たばかりの明治の人々に大変な感動を与えました。『自由』と『平等』という言葉を啓蒙した日本初の知識人として、福沢は広く尊敬を集め、最近ではお札のモデルにまでなっております。

 

 ・・・しかしですね、最近の京王線大学福沢翁調査会の調べで、福沢がこの言葉を思いついたのは、そんなに難しく考えたわけじゃなく、ほんの成り行きであった事が判明したのです。 

 調査会の調べでは、福沢がこの言葉を思いついたのは、彼が幕府の遣米使節団の随行員としてサンフランシスコに渡った万延元年(1860)でした。福沢は勝海舟提督の率いる咸臨丸に陽暦2月10日浦賀から乗り込み、新見豊前守正興率いる使節団の乗る軍艦ポーハタン号を追いかける形で、太平洋をアメリカへと航海して行ったのです。

 いやあ、勝海舟さんという人は、幕府の海軍奉行という役職にいながら大変乗り物に弱かった。もうそれは病的なほどで、船が動き出した途端、甲板にいるだけで「ウエッ」となり、口を押さえてトイレにバタバタ走って行かれるという大騒ぎ。とてもじゃないが旧式帆船で37日間の荒海航海などできるお人じゃございませんでした。動いている物は、駕籠、馬、牛車、ブランコ、親父の肩車でも「ウエッ」と来てしまうという特異体質。ビニール袋のない当時としては、タライに手ぬぐいで凌いでいたに違いありません。そんなお方が海軍奉行、言わば海軍大佐をやっているのですから、幕末とは言え実に暢気な時代でございました。

 他の随行侍はそんな無様な勝さんでも、一応お偉い方だからと気を使い、キャビンでウンウンうなっているのを見ても見ぬふり、神妙にしていたそうです。しかし、当時26歳の福沢諭吉さんだけはそうではなかった。この方はやはり生粋の大阪人。お追従が苦手で何でもズケズケ見たまま感じたまま、本音しか言えない人だった。日本人よりアメリカ人と気が合うというぶっとんだ性格だった、と当時の記録に残っております。

さて、そんな航海も終わりに近づいた、ある日の午後の事です。
 

   (福沢、二階の特等個室を覗く。勝、ベッドの上でタライを抱え、青い顔で唸っている)
福沢「勝さん大丈夫でおまっか? そろそろサンフランシスコに着くて、さっきアメリカ人の水夫が言うてましたで」
勝 「ウエッ」
福沢「(笑う)日本離れてから一ヶ月。ウエウエウエウエ・・・あんさんそれしか言いまへんな。たまにはウエの代わりに『シタ』とか言えまへんか? クックック」
勝 「ウ・・・ウエッ」
福沢「だいたいあんさんみたいな船酔いする人今まで見たことおまへんで。よう提督なんぞになれたもんやで。ほんまに幕府も大し た度胸や」
勝 「オ・・マ・・・ウエッ!」
福沢「(独り言)もうやめとこ。陸に上がってからが怖いさかい・・・。
(勝に)あ、勝さん、ウエウエやってて『船中テーブルマナー教室』一回も参加せなんだやろ」
勝 「ウ・・・ウエッ」
福沢「けどこれだけは忘れたらいかんで。アメリカの正式ディナーで は、ワインでもブランデーでも『一気飲み』が正式のマナーですねんて。注がれた酒は乾杯して一気に飲み干す。そうせんとえらい恥かくらしいですわ(真面目な顔)」
勝 「(不安そうに)ウ・・・エッ・・・?」
福沢「明日の市長の宴会では忘れんようにお願いしまっせ。日本人は礼儀知らずやて言われんように・・・」
  (福沢、部屋を出ようとする。その時、突如として船が上下に激しく揺れる。福沢、転んで寝ている勝の真上に落ちる)
福沢「(勝の上で)勝はん、堪忍しておくれやっしゃ!」
勝 「(福沢の下で)ヒ・・・トノ・・・ウエッ!」
福沢「(勝の上で)すんまんへん・・・今のきま・・・」
  (突然船が反対側に傾き、福沢、勝ともにベッドから投げ出されて一回転し、壁際で折り重なる。今度は勝が上で福沢が下になる)
福沢「(勝の下で)勝はん、重いで!ゲロ吐いたタライ持ったまま転ばんでもええやろ。汚いな」
勝 「スマ・・・ウエッ!」
福沢「(勝の下で)ウエやおまへん、あんさんが人のウエにおますのんや。どいてくれまへんか」
勝 「ウ・・・ウエッ!」
福沢「(勝の下で)あんたが人のウエにおって私がシタにおるんです!」
勝 「ウエ〜ッ!」 
福沢「よおカッサン、ええかげんにせんとしまいにドタマかち割るで!」  (勝を背負い、一気にバックドロップをかける)

  (その時、突然揺れが静まる。船がサンフランシスコ湾に到着した模様。銅鑼の音が響き渡る。突如として生気を取り戻した勝は、タライを持ったまま床から起き上がり、静かに福沢を見つめる)
 

福沢「(ニッコリ笑う)・・・やっと着きましたね。いやはや無事でよう
ござんした、ホンマに」
勝 「・・・」
福沢「・・・いやあ、意外と船の旅というのもおつなもんで・・・はは」
勝 「・・・」
福沢「・・・いやあ、何ね、アメリカというのは四民平等で、それはまあ
自由な国だと聞いてま・・・」
勝 「シタ」
福沢「・・・は?」
勝 「シタって言ってんだよ、おい(床を指さす)」
福沢「・・・はい」
  (福沢、四つん這いになる。そこへ勝が覆い被さり、一回転して足四の字固めのリーチに入る)
勝 「(タッグしたままの姿勢でカウントする)ワン、トー、トリイ、ホー、
ハイブ、シック、セベン、エート、ナイン・・・ナイン・・・」
福沢「・・・」
勝 「ナイン・・・?(福沢の顔を見る)」
福沢「テン」
勝 「・・・てん? ナインの次はお天とさんかよ?」
福沢「はい」
勝 「・・・じゃあ、『てん』のシタはないんだな?」
福沢「・・・?」
勝 「ほんの駄洒落だぜ。(口をとがらす)貴様〜、ちょっと英学勉強したからっていい気になっていばるんじゃねえぞ。・・・しかし一気飲みかよ。下戸の俺には地獄だぜ・・・(ため息)一体あと何日したら日本に帰れんのかよ・・・ちくしょう・・・うう・・・。
  (両手の指を折って頭を振りながら数え始める)
ワン、トー、トリイ、ホー、ハイブ、シック、セベン、エート、ナイン・・・てん・・・ワン、トー、トリイ、ホー、ハイブ、シック、セベン、エート、ナイン・・・てん・・・ワン、トー、トリイ、ホー、ハイブ、シック、セベン、エート・・・ナイン・・・ナイン・・・ナイン・・・くそっ・・・てんやんでい!」

  (福沢、そっと部屋を抜け出し、甲板に出る)
福沢「(独り言)・・・人のウエ・・・シタ・・・てん・・・人のウエ・・・てんのシタ・・・ないん・・・テンは人の・・・ウエ・・・テンは人のウエに人を造らず、人のシタに人を造らず」          
(遠くを見る)
  

・・・この勝海舟とのタッグマッチが福沢の心に、何か火を灯したのでしょうか。「テンは人のウエに人を造らず,人のシタに人を造らず」という名言が生まれたのは、この日、陽暦1860年3月17日、咸臨丸がサンフランシスコ湾にめでたく入港した日だったのです。

 しかし、勝さんときたら生真面目に福沢の言う事信用して、出る酒出る酒、下戸のくせに飲むわ飲むわ、市長の宴会半ばで泡吹いて病院にかつぎ込まれたという記録が残っております。いや、私自身は別に、そんな、なにをおっしゃるおさるさん、いや、福沢さんにも勝さんにも個人的な恨みがあってこの事を公にするのではありません。とかく歴史というのは虚偽に満ちたものだという事を、皆さんに知っておいてもらいたいのです。あ、時間ですか? はい、では皆さん、今日はこのへんで、さようなら。来週は「仰天、小野妹子は男だった!」というテーマで歴史の墓穴を掘りたいと思います。

     談:司馬●太郎氏

福沢諭吉さんとガールフレンド(万延元年アメリカにて

海軍奉行、勝海舟さん

 


新説:板垣死すとも自由は死なず:

 

2002年10月4日

「板垣死すとも自由は死なず」ーー自由民権運動家、板垣退助(1837〜1919)の有名な言葉です。明治15年、板垣が45歳の時、岐阜の演説会で反対派の刺客に襲われた際、彼はとっさにそう叫んだと伝えられ、今日に至っています。

 板垣は幸い軽傷ですみましたが、「板垣退助個人は死んでも、全国の自由民権運動は滅びない」と解釈されたこの言葉は津々浦々に広まり、何万という自由党員を奮わせ、青年たちに感動の涙を与えました。何しろ襲われた時の様子を描いた錦絵がバカ売れし、板垣は「自由権現・民権神」と神扱いされるようにまでなったのです。その後も彼の名は日本の憲政の基礎を作った偉人として長く伝わり、お札のモデルにまでなっています。
 

 ・・・しかし、実際に板垣が刺された時に言ったのは、
 

「板垣死すとも自由は死なず(イタガキシストモ、ジユウハシナズ)」
 

ではなく、
 

「板垣死す、智次、由和、志奈(イタガキシス、トモジ、ユワ、シナ)」

であった事が最近の土佐大学板垣退助研究会の調べで判明しました。研究会によると、『智次』『由和』『志奈』というのは板垣退助が当時婚外交際をしていた柳橋の芸妓の名前だそうです。板垣が三人に初めて会ったのは、明治10年、10月10日。自由民権家が集まって自由民権運動会を代々木競技場で開いた日の慰労会です。慣れないパン食い競争や綱引きで疲れ切っていた板垣は、ホステスとして接待してくれた売れっ子芸者の智次姐さん、妹芸者のお由和さん、お志奈さんの商売物の優しさにコロッとまいってしまったそうです。

 板垣というのは元土佐藩士で、外見は山羊のような白髭爺に見えますが、あれでなかなかの女好き。しかし二つ年上の板垣イタコという家付きの恐妻がいて、土佐にいる間は浮気の一つもできなかったそうです。だから単身赴任で江戸に出て、鳥羽伏見や会津の戦いで手がらをたてて明治新政府に雇われてからは、とにかく芸者遊びに夢中。伊藤博文も真っ青の放蕩ぶりで、毎晩のように待合いに入りびたりだったという逸話が残っています。

 智次姐さんというのは板垣より20歳も年下のちゃきちゃきの江戸っ子芸者で、妹芸者たちと板垣の座敷に出ては彼の野暮なラブメイキングをからかったそうです。

そんなある夜の事です。

智次「板垣先生、先生はいつも刺客に狙われてるって本当?」
板垣「本当じゃ。ほれ」
(刀の杖で天井を叩く。刺客がボロボロ落ちて、庭先に走り逃げる。芸者たち悲鳴を上げる)
由和「まあ、こわい」(板垣にすり寄る)
志奈「こわい、こわい」(板垣にすり寄る)
智次「これじゃ先生、いつ死ぬかわからないじゃないの」
板垣「(笑う)ほ〜ほ〜ほ〜。わしゃ、いつ死んでも何の悔いもない」
志奈「さすが先生、度胸があるねえ」
由和「いよっ、日本一」
板垣「(笑う)ほ〜ほ〜ほ〜」
志奈「でも、先生の奥さんが可愛そう。先生が死んだら泣くわよ」
板垣「けっ、あのくそ婆が泣くもんか。せいせいしたと言いよるわい」
智次「まあ、ひどい」
由和「私は泣くわよ、先生が死んだら」(嘘泣きする)
志奈「私だってワンワン泣くわ」(嘘泣きする)
板垣「(二人を抱いて頬にキスする)わけえおなごは可愛いのお〜」
智次「先生、死ぬ時は私たちの事、思い出してくれる?」
板垣「(笑う)もちろんじゃ」
智次「じゃあ、死ぬ間際に私たちの名前、呼んでくれる?」
板垣「(笑う)もちろんじゃ。大声でお前ら三人の名前を呼んでやる。
  『板垣死す、智次〜、由和〜、志奈〜』とな」
智次「本当、先生? 嘘じゃないわね?」
板垣「(笑う)もちろんじゃ」
智次「じゃあ、げんまんよ。嘘ついたら罰があたって地獄に落ちるわよ、いい? う〜そついたら〜は〜りせんぼんの〜ます♪」
板垣「(三人とげんまんをしながら)ほ〜ほ〜ほ〜。わけえおなごは可愛いのお〜」(三人を抱く)
智次「(真面目な顔で)ホントに嘘ついたら地獄に落ちるのよ、先生」
板垣「・・・」
 

 ・・・で、数ヶ月後、岐阜の演説会で刺客に刺された時、死ぬと勘違いした板垣は、地獄に落ちるのが怖かったのでしょうか、几帳面に三人との約束を守り、「板垣死す、智次〜、由和〜、志奈〜」と言ったのです。板垣自身、それが「板垣死すとも、自由は死なず」と解釈されると予想していたのでしょうか? それは不明です。彼はその後、「板垣死すとも、自由は死なず」についてインタビューされても、決してそれについて語ろうとしなかったのです。

 え? 「イタガキシス、トモジ、ユワ、シナ」の最後に「ズ」が来ないとおかしいって? 実はですね、「ズ」は奇跡的にその場に存在して
いたのです。演説会の会場の一番前に座っていた聴衆が、どうやら板垣がダラダラと話している間に、大いびきをかいて居眠りしてたらしいです。「ZZZ・・・ZZZ・・・」という風に。その「Z」が「ズ」として、「イタガキシス、トモジ、ユワ、シナ・・・」の後にテンポ良く「ズ・・・」とかぶさった、と今度発見された演説会のプロモーターの日記に残っています。しかもそのプロモーターは、板垣がこの台詞を恥ずかしそうに頬を赤らめ、傍目を気にしながら言った、と日記に記しています。「変な人だな、『板垣死すとも、自由は死なず』と言うなら、もっと堂々と言えばいいのに」と不思議に思ったそうです。

 いや、私自身は別に、そんな、何をおっしゃるうさぎさん、いや、板垣退助さんに個人的な恨みがあってこの事を公にするのではありません。とかく歴史というのは虚偽に満ちたものだという事を、皆さんに知っておいてもらいたいのです。え? 刺客に刺されても死ななかった退助さんのその後ですか? 一時は神扱いされた彼も、晩年は政府の弾圧で民権運動も行きづまり、惚れた芸者にも身請けした途端に逃げられ、孤独なボケ老人で大正9年に82年の生涯を終えたそうです。

 あ、時間ですか? はい、では皆さん、今日はこのへんで、さようなら。来週は「秀吉は実はサルでなくキジだった」というテーマで歴史の墓穴を掘りたいと思います。

   
                    談:作家、司馬●太朗氏

板垣退助さん 

第25回嘘競演出品作品、お題『自由』

 

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